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12月メタセコイヤ

12月 メタセコイヤ

落葉針葉樹の高木、成長が速く、日本では、20~25年生で、樹高20メートル、胸高直径50センチになる。
樹幹は直立し、美しい見事な円錐形の樹冠をつくる。
特に、冬季に細かな枝が密集した細長い円錐形の姿は美しく、遠くからでも識別することができる。
葉は羽のようにやわらかく、上面がサワーグリーン、下面が薄緑色をして、2列水平羽状対生します。夏季もそれほど深緑色にならずいつまでも若々しい。
秋~冬、雌花が咲き終わると球果が付き、熟すと松笠状の果実(果鱗)が開いて翼のある種子は地面に落ちるが、 果実はその後も枝に残る。
秋になると葉は橙褐色に紅葉して、その後、弱い側枝と共に落下する。
幹の下部はふぞろいに太り、放射状に凹凸する。

湿地に適した樹で、日当たりが良く、水はけの良い湿地では、成長はきわめて速い。
暑さや寒さに強く、環境への適応性も高い。
化石植物であること、生長が早く、美しいことから、公園樹や街路樹として植えられた。
用材としての利用価値は柔らかくて低い。

メタセコイヤは生きた化石と言われる、1940年頃、京都帝国大学の三木茂博士は近畿地方の化石植物を研究され、発掘された化石の中で、これまでアメリカに生育しているスギ科のセコイアやヌマスギと同定されていた化石が、いくつかの点で特徴が異なっていることに気づき、1941年、別の種類としてメタセコイアと命名した。
博士は、葉や球果(マツボックリのようなもの)の特徴から、この植物が冬に葉を落とす落葉性の針葉樹であることを指摘され、また、ある時期の地層からは多くの化石が産出するのに、その後は産出しなくなることから、多分絶滅したと推定された。
ところが、1945年に中国の内陸部にある四川省と湖北省の境界付近にある利川市で生きたメタセコイアの自然林が発見された。
中国の研究者、胡博士は、たまたま三木博士の論文を読んでおられ、絶滅したと考えられていた植物が現在も存在していたこと、また、出現してから現在まで形態も生態も大きく変わっていないことから、1946年に「化石で記載されていた種が生きていた」として発表され、生きた化石として有名になった。

日本では、皇居に1949年2本のメタセコイアが植えられた。
その後、保存会が結成され、1950年に中国の原産地で採取された種子がアメリカで播種され育てられた苗(実生苗)100本が輸入された。
その後、メタセコイアは実生でも挿し木でも良く増殖するため、全国各地に拡がった。

Metasequoia(メタセコイヤ)の語源は、ギリシャ語の 「meta(後に)+ Sequoia(セコイヤスギの属名)」 。
meta は「~の後に」の意味で、メタセコイアが化石植物として セコイア属と混同されていたものを、後に区別したために名付けられた としている。
確かに英語でも meta- は「後~、共~、超~、変化した」の意味があるが、ラテン語『研究社/羅和辞典』には「後の」の意味はなく、かわりに、「円錐体」があり、樹形から名付けられたかもしれない。

アケボノスギという和名が付けられたがあまり流布せず、属名をそのまま読んでメタセコイアと呼ばれることが多い。

セコイヤは北アメリカに自生する樹高100メートルに達する世界一高い木で葉が似ていて混同されていた。
セコイアの名前は、アメリカ原住民の名前に由来している。
「アメリカインディアン悲史」によると、彼はチェロキー族の優秀な頭脳の持ち主で、チェロキー語が86の基本音節から成ることを解明し、初めてチェロキー語の文字を作り、原住アメリカ人として初めて文字をもつ文化を作り出した人物です。白人に対して文字を持たないことに劣等感を持っていた原住アメリカ人にとっては英雄の名前なのです。
100メートル近くまで伸びるセコイアに対して、メタセコイアは30メートルくらいまでしか伸びない。

最近では、メタセコイヤは「冬のソナタ」中でペ・ヨンジュン、チェ・ジウさんがメタセコイヤの林の小道で雪の中戯れていた木として有名です。

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